本間黙斎は,相川の生まれです。 相川の藩校修教館の教授をやめた後,犁雨邨舎を建てました。

  ★犁雨邨舎と本間黙斎

   「犁雨邨舎(りうそんしゃ)」は、文政9年(1826年)に本間黙斎(1754〜1829)によって建てられ
た私塾である。黙斎は相川の川島家から新穂町の本間孫七家の婿養子になった人で、幼い時から学
問が好きで、20才の頃京都の魯堂のもとで学問をした。「佐渡の藤樹先生」といわれた程、徳行があっ
た人でもある。
  黙斎は、50才頃から新穂の地で子弟に教えていたが、70才の時に私塾として独立の「犁雨邨舎」
を建てた。 「犁雨邨舎」は、黙斎を慕う人々の寄付や労力奉仕によって建てられ、新穂はもとより全島
の人々の教育機関として大きな存在であった。
  犁雨邨舎碑は、昭和3年の新穂村教育委員会主催先哲百年の追悼祭の際の事業として建てること
となり、寄付により昭和7年に竣工されたもので、現在、新穂小学校の校門脇にある。



 犁雨邨舎碑


 黙斎の書の一部


  ★新穂村における学校の変遷

  ・明治 2年 2月   
 
 
  ・明治 3年      
  ・明治 7年 8月   
 
  ・明治11年      
  ・明治12年      
  ・明治14年      

  ・明治18年      
    
  ・明治20年      
  ・明治22年      
 
  ・明治23年      
  ・明治25年       
  ・明治34年         
                   
                  
         

太政官布告で郷学校のすすめがあり、大野報恩寺に大野郷学校設
立。区域は、下新穂、北方、皆川、舟下、武井、新穂、大野、長畝、栗
之江、畑野、小倉。
報恩寺から下新穂曼陀羅院跡に移り、下新穂郷学校と改称。
公立小学校設置により、下新穂郷学校を新穂庠舎と改称、本校を馬場
三蹄坊、分校を上新穂、下新穂、舟下に置く。
新穂小学校新築(馬場金剛院跡)。
大野分教場を置く。
大野分教場独立して大野小学校と称す。皆川も独立して皆川小学校を
設ける。
井内、青木、上新穂、瓜生屋と共同で薫陶小学校を設ける。舟下も分
離、皆川と合併し目黒町小学校分教場となる。
新穂、北方、下新穂、大野、武井合併 育英小学校を設ける。
大野、武井再び分離して大野小学校となる。新穂、北方、下新穂、青
木、瓜生屋、井内、上新穂が合併して尋常科新穂小学校を設ける。
新穂小学校、新穂上町に校舎新築着手翌年落成。工事費1千百円。
新穂村立新穂小学校と改称。
新穂、国仲、長畝、大野、潟上組合、吾潟、水津、岩首の8か村組合立
の新穂高等小学校を設置。
5か村が大同団結し現在の新穂村となる

                           以上 新穂村史より抜粋


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